桜木花道が傘を持って来ていたのは、奇跡に等しかった。
「レインドロップ」
桜木が目覚めたのは、お昼すぎだった。
朝早い時間に外を走っているため、家に戻ると二度寝してしまう。
天気予報など見もしない桜木は、もちろん傘など持たない。
走って登校するようになってからは、自転車もさびついている。
学校まで半分ほど来たとき、突然雨雲が顔を出した。
イヤな予感がしたものの、引き返すわけにはいかない。
桜木は走りながら雨に打たれた。
通り雨なら根性で乗り越えられる。
そう思い、足を止めなかった。
だが、雨足はどんどん強くなり、服や靴に伸し掛かって来た。
どうやら、雨は止むつもりがないらしい。
桜木は仕方なく、コンビニのドアをくぐった。
安物のビニール傘を手に取って、レジに向かう。
コンビニを出ると、雨はバケツの水をひっくり返したように降っていた。
勢い良く傘を開いて、再び走り出す。
すでに服も靴も重かったが、風邪を引くよりはましだろう。
桜木が学校に着いた頃には、五時間目が終了していた。
玄関からまっすぐに更衣室へ向かう。
着替えをすませて、体育館に向かった。
「ちゅーす」
桜木が、先客である彩子に声をかける。
「随分早いわね、桜木花道。ちゃんと授業受けたの?」
彩子がジロリと桜木を睨んだ。
「いやー、実は遅刻しまして……」
「まさか、今来たの?」
「はい」
「……全くもう」
深い溜め息を吐いて、彩子が両手を上げた。
「雨に当たったんじゃない?」
「はい。コンビニで傘買いました」
「ほら、神様が怒ってんのよ、きっと」
彩子がからからと笑う。
「こんにちはー」
入口から、晴子が顔を出した。
「は、晴子さん」
桜木の背筋が伸びる。
「晴子ちゃん、ちゅーす」
彩子が肘で桜木をつついた。
「桜木くん、早いね」
「はい」
「教室に迎えに行ったんだけど、いなかったから」
「え?」
桜木が頬を染める。
「今日は掃除当番じゃなかったから、一緒に部活に行こうと思って」
「あら、残念だったわね、桜木花道。やっぱり神様が怒ってんのよ」
からかう彩子の声も、桜木の耳には届かなかった。
「晴子さんがオレを……」
「ちゅーす」
一年生が何人か体育館に入って来た。
「さ、始めるわよ」
「なっはっは! 天才バスケットマン桜木、雨にも負けません!」
部活終了後。
桜木が体育館を出ると、長い廊下の先に晴子が立っていた。
「晴子さん!」
晴子は心配そうに玄関の外を見ている。
「桜木くん」
「今、帰りですか?」
「うん。……実は傘を忘れちゃったの」
顔を赤くして、晴子が俯いた。
「今朝、全然降ってなかったでしょ?
お兄ちゃんに持って行けって言われてたのに、つい意地張っちゃって……」
「そ、そうですか」
「まだ少し降ってるみたい」
桜木は玄関の外を見た。
しとしとと降る雨は、止みそうにない。
「あの、晴子さん」
桜木は靴箱にかけてある、ビニール傘の存在を思い出した。
初めて巡って来た、相合傘のチャンス。
「悔しいけど、お兄ちゃんに迎えに来てもらおうかな」
「あの、晴子さん!」
「はい!」
桜木の大きな声に、晴子が驚いて顔を上げる。
『傘があるので、一緒に帰りましょう』
その台詞が、喉に詰まった。
「あのですね……」
「桜木くん?」
「ちょっと待ってて下さい!」
桜木は晴子の前から走り去り、靴箱にかけられたビニール傘を掴んだ。
「これ、どうぞ!」
「え? でも、桜木くんの傘じゃあ……」
「自転車ですから」
「でも、濡れちゃうよう」
晴子は両手のひらを横に振った。
「大丈夫です」
「桜木くん」
「では、また!」
晴子に背中を向けて、桜木が去る。
「ふんぬー!」
降り止まぬ雨の雫が鬱陶しく思えて、桜木は全速力で家までの道を走った。
――END――
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